商船三井のアフリカ史



大阪商船 アフリカ航路の歴史


アフリカ東岸線

1916年12月大阪商船の西航南米線開設以来、同航路の就航船は南アフリカのダーバン・ケープタウンに寄港を開始した。1918年からは復航アルゴアベイ・イーストロンドンに臨時寄港し、1922年には往航でポートエリザベスを寄港地に加え、南アフリカ貿易に寄与した。その後、ボンベイまたはアデンを経由し東アフリカに輸出される日本製品が年々増加、日本アフリカ直通航路の開設が期待された。

1925年には大阪商船は調査員を東アフリカに派遣・踏査したうえで、1926年3月、「かなだ丸」を第1船としてアフリカ東岸線を開設した。
毎月1回の定期航路として、神戸を起点に往航は門司・香港・シンガポール・コロンボ・モンバサ・ザンジバル・ダルエスサラーム・ベイラ・デラゴアベイ・ダーバン、復航はダーバン・モンバサ・シンガポール・門司・大阪・神戸。1931年には総トン数1万トン級の大型船5隻を投入し、1930年代に急増した日本製品の海外進出を支えた。

当時の大阪商船による東アフリカ経済事情調査報告書(1926年)(別添ファイルご参照)

東アフリカ航路英文パンフレット画像(別添ファイルご参照)

アフリカ東岸線第1船「かなだ丸」
戦前のモンバサ駐在事務所(1929-1941)の白黒写真。「MITCHELL COTTS AND CO LTD」と記された植民地時代の建物と、前景に男性の像が見えます。 戦前のモンバサ在勤員事務所(1929-1941)
悲劇の船「報国丸」

1930年代、各国列強によるブロック経済化が進んでいたが、東アフリカ地方は自由通商を掲げており日本製品の販路が拡大、また南アフリカからの羊毛、英領ウガンダ・ケニヤからの綿花輸入も増加していた。そこで大阪商船は、1万トン超級の最新鋭ディーゼル貨客船3隻の建造に着手、第1船「報国丸」は1940年7月アフリカ東岸線に就航した。総トン数10,500トン、船客定員1等50名、3等300名、最高速力21ノット超の新鋭船は各寄港地で驚きをもって迎えられたが、第2次世界大戦の戦火拡大により、わずか1航海をおこなっただけで、日本の近海航路に転配することになった。
その後、「報国丸」は僚船「愛国丸」とともに日本海軍により特設巡洋艦に改装されたが、両船とも戦火の中で短い生涯を終えた。

長く流線形の構造を持つ20世紀中頃の報国丸」が静かな海を航行している白黒写真。 「報国丸」
迷彩塗装を施した歴史的な特設巡洋艦として武装された「愛国丸」が、静かな海に浮かんでいる様子。 特設巡洋艦として武装された「愛国丸」
アフリカ西岸線

1933年、大阪商船は「あらすか丸」をケープタウン経由アフリカ西海岸のロビト、ラゴス、アクラ、ダカールに就航した。この初回の航海は、当社・荷主ともに西アフリカ市場の情報が少なく、少なからず犠牲を払うこととなったが、これに屈せず1935年に「あとらす丸」「あらすか丸」を配船、1936年には3航海の配船を行い、本航路の基礎を確立。1937年には「あらすか丸」「あとらす丸」「春光丸」の3隻で年間6航海の定期航路とした。
1939年には、総トン数6700トン、最高速力18ノットの新鋭船「西阿丸」「東阿丸」、1940年に「南阿丸」が就航し、航海日数の短縮と輸送能力の増強を行った。 しかしながら、第2次世界大戦の戦禍は西アフリカにも波及し、日本政府の指示により、1940年の「南阿丸」の配船を最後に休航にいたった。

静かな海を航行する「南阿丸」の白黒写真。上部構造物と貨物用クレーンが備わったマストが特徴的です。 「南阿丸」

西アフリカ航路パンフレット画像(別添ファイルご参照)

戦後アフリカ航路の再開
  1. 東アフリカ線、南アフリカ線の再開

    第二次世界大戦後の1951年、連合国軍最高司令官総司令部(GUQ)は当社に対しアフリカ定期航路開設の許可があり、「大阪丸」を第1船としてケープタウン折り返しアフリカ線を再開した。その後航権の回復に努め、1956年の日英通商協定の更改により東南アフリカ方面向け荷動き量の増大があったことから、当社は東アフリカ線、南アフリカ線に分離した。1957年、南アフリカ線は「東海丸」を第1船として、また東アフリカ線は「阿波丸」を第1船にそれぞれ毎月1回の定期配船を行った。1958年には南米航路の定期寄港も再開し、アフリカ東岸、南岸方面の配船は戦前の水準を超えるものとなった。

    静かな海を航行する在来船「大阪丸」(第二次世界大戦後、初めて建造された外航貨物船)の白黒写真。船には貨物用クレーンが備わっています。 在来船「大阪丸」(第二次世界大戦後、初めて建造された外航貨物船)
  2. 戦後の西アフリカ線

    1954年には「大阪丸」を第1船として西アフリカ航路を再開した。1940年に休航して以来、14年ぶりに当社の社旗が西アフリカ海域にひるがえった。当社休航中は、極東から西アフリカ向けの貨物はすべてヨーロッパ各港での積み替えであったので、輸送日数の短縮、低運賃を実現し、関係荷主の大歓迎を受けた。再開当初往航はケープタウン経由西アフリカ諸港を北上してダカールまで、復航はカサブランカ、スエズ経由で日本に帰港した。その後、一時復航でメキシコ湾パナマ経由としたが、1958年以降は再びスエズ経由日本帰港とした。
    さらに1962年からは地中海/日本線として、西アフリカ航路の復航船を地中海諸港に寄港させた(第1船「ぱなま丸」)。

    複数のマストと旗が見えるヴィンテージ在来船「ぱなま丸」が、広い海を航行している白黒写真。 在来船「ぱなま丸」
セミコン船の登場、 そしてフルコンテナ化へ

カリフォルニア航路を皮切りに始まったコンテナ輸送への要請は、アフリカ地域でも高まった。当社はセミコン船(従来の定期船貨物のみならず、コンテナの積載にも適した構造の在来型定期貨物船の一種)を投入し、その需要にこたえた。1977年には仕組建造したOcean-E型(コンテナ積載個数545TEU)が、1979年には社船「あふりか丸」「あとらんていつく丸」(コンテナ積載個数664TEU)、1981年には同じく「ぱしふいつく丸」「ぱなま丸」(コンテナ積載個数786TEU)が投入された。

クレーンが備わったセミコン船:「あとらんていつく丸」が、ビルと丘を背景にした賑やかな港で他の小型船と並んで停泊しています。 セミコン船:「あとらんていつく丸」

1981年には、南アフリカ航路において先行してフルコンテナ船によるサービスが始まった。 当社、日本郵船、川崎汽船、Safmarine社、Nedlloyd社によりSafari Serviceを結成し、フルコンテナ船4隻により月2航海のサービスを開始した(サービスの第1船は当社の「大阪丸」(1770TEU))。

山々を背景に、カラフルなコンテナを積載した大型コンテナ船「大阪丸」が航行している様子。 コンテナ船「大阪丸」

さらに1990年代には、1993年の南アフリカへの経済制裁の解除や貨物輸送のコンテナへの切り替えの進行によりコンテナ輸送が順調に拡大、セミコンテナ船のフルコンテナ化も進行した。
東アフリカ航路では、日本からのセミコンテナサービスから、1992年にシンガポール起点のフルコンテナサービスに切り替えられた。
西アフリカ航路では、1994年12月のWAFEX(他社との共同配船)を解散し、当社単独でケープタウンからのフィーダーサービスの提供を開始。1997年からはNedlloyd社と協調して直航サービス(釜山を起点)を開始した。